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上代では新羅の王族

上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代赫居世居西干は朴、4代脱解尼師今は昔、13代味鄒尼師今は金となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている(詳細については既述)。13代金味鄒は金閼智の子孫とされているが、後になってこの金閼智の子孫を称する一族が金氏王統となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。

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三国史記では法興王の時代521年に中国南朝の梁に使を遣わした新羅王は、姓は募、名は秦と伝えられる。564年に北斉の鄴に使を遣わした新羅王は金真興であった。募という姓は慕韓とも書かれる馬韓のことで、新羅王家が百済系だという「隋東藩風俗記」の伝承が史実であることを示している。新羅は532年に金官国の王である金仇亥を降し、536年に初めて国号を立て建元元年とし、545年には初めての国史を編纂、554年には百済の聖王を管山の戦いで殺し、562年に加耶国を征服して任那を完全に併合した。その2年後の564年に金真興が現れるので、金姓は金官国の王家の姓を百済との絶縁の象徴として採用され、金氏の系図もこの頃造られたものであろう。

ただし、統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。

新羅の王(君主)を表す称号としては『三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)、尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で王号を「王」に定め、諡の制度が始まったとしている。また、中原高句麗碑文や『日本書紀』には寐錦、蔚珍鳳坪碑文には寐錦王、迎日冷水碑文には葛文王、『太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(これについては麻立干に相当すると考えられる)などの表記が見られる。

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2009年04月30日 09:56に投稿されたエントリーのページです。

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